2023年12月30日土曜日

「和声警察」の研究

 着物で街ゆく若い人を呼び止め、帯の位置やら色の合わせ方やらを説教し、または勝手に直したりする人を、俗に「着物警察」と呼び、たびたびSNSで話題になる。他人のパーソナルスペースに立ち入る不遜さ、若い人が若い人の感性で自由にファッションを楽しむことの否定は、洋装に押される中で高級路線を採り、教室を展開することで着付けをメソッド化した業界の努力が裏目に出たのだろうという指摘を読んだ。戦後新たに作られた「伝統」で自縄自縛に陥り、自分たちの民族衣装を捨てていく結果になるのは滑稽だ。若者が奇抜な恰好を楽しむ例は江戸にもあって、髷を本多に結い、眉を細く抜き、白粉を塗って紅を差し、長すぎる羽織でルーズにまとめ、蛇やムカデといったグロテスクな文様のキセルを吸う化政の頃の若者像は、平成の頃のギャル・ギャル男像と通底するものがあって、私などはむしろ、その連続性に、よほど東京という街の、都市文化としての「伝統」を感じる。

 我らが界隈にも、俗に「和声警察」と呼ばれる人々がいる。SNSに挙げられた諸作の禁則を指摘する一群で、しばしば炎上の騒ぎになる。観測した例を挙げれば、『和声 理論と実習(島岡譲執筆責任・音楽之友社)』II巻の近親転調では規定されていない増4度上・減5度下への転調の例、また、I巻で禁じられる連続または外声どうしの並達の例などだ。作家の自由の一言で終わるはずの話だが、どれだけ専門家が言を費やしても一向に聞き入れられず、エスカレートしたやり取りは人格攻撃に至る場合もある。(一言だけ付言するが、こうした人格攻撃こそ最も人の道に悖る行為であり、本稿に示す内容がこれ以上に大事であるなどあり得ない。考えられ得る限りの強い言葉で非難する。)こうした事象がなぜ起こり、なぜ繰り返されるのかを考察するのが、本稿の目的である。

・禁則を問う無意味さ

 さて、「和声警察」が対象とする作品には共通した特徴がある。すなわち演奏会用に整えられたポピュラー音楽、大衆音楽の文脈が取り入れられたセミ・クラシック音楽といった作品群だ。古典派・ロマン派の大家による類似した(彼らの基準によれば、理論的に逸脱していると非難するべきはずの)作例を専門家が示しても、それらは問題としない。あくまで、現代日本で作られる、比較的に若い作曲家の作品に限られる。

 我々が音大等で学ぶ和声は、ラモーの『和声論(自然の諸原理に還元された和声論、伊藤友計訳・音楽之友社)』に端を発する。ラモーの重要な主張は『和声論』の冒頭に早くも現れる「旋律は和声の一部」の一文にすべてが現れている。つまり、和音・和声こそが音楽構造の最重要決定因子であるという点だ。Harmony(調和)の語は、ジョゼッフォ・ツァルリーノ(ザルリーノ)『調和概論Le Istitutioni Harmoniche』の時代にあっては、単旋律に対しても用いられる概念であったことは、ラモー自身がその著書中で触れている(ゆえに、ツァルリーノのHarmonicheは「和声」の意味で訳されない)。

 同時的に響く縦の響きは常々に意識されながらも、それはあくまで、複数の旋律すなわち横の要素を組み合わせた結果だと捉えたツァルリーノに対し、「AならばB」的な命題として、縦からでも横を導き出せると証明して見せたのがラモーだった。ただ同時的な響きだけによる作曲法を主張したなら同時代の楽師には受け入れられなかったろうが、ラモーは縦を基準にしてもフーガが書けることを示した。このラモーの研究を土台に、フーゴー・リーマンによる機能理論(『Vereinfachte Harmonielehre』)を組み合わせた結果が、新たに作られた「伝統」たる今日の和声のメソッドである。そこに設定された様々な制約、種々の禁則の意味合いは、縦の要素からフーガを書くためのものであると要約できる。縦の究極は横の究極と等しくなければ、理論として成立しているとは言えない。

 こうして、線の集積から空間を作るバロック以前の対位法の書法から、空間から線を創り出す古典派以降の和声法の書法へと変化した。パラダイムシフトが起こり、空間の概念はロマン派の作曲家たちによってますます増強されていった。空間の移り変わりを示すために最も適した形式がソナタだったのであり、その途上でソナタは二部形式から三部形式へと変容した。トニック・ドミナントを基準とした空間設計を、島岡理論は「ゆれ」という言葉で表現する(『総合和声 実技・分析・原理』島岡譲執筆責任・音楽之友社)。

 空間そのものをデザインする音楽のあり方が優位に立つにつれ、対位法からの遊離が始まる。ピアノという楽器が成立し作曲家の楽器になったのも、その傾向に拍車をかけたかもしれない。徐々に「声部」の概念が音楽成立の必要条件から外れていき、高次倍音を豊富に含む自在な和音が可能になる。終戦後の音楽は(ポピュラー音楽はもちろんのこと)ジャンルを問わず、古典・ロマン派期を通して十分に増強された空間概念を土台に出発している。主従なく独立した横の動きを目的としない、つまりフーガ形式を最終的な目的としない楽曲において、和声のメソッドの諸規則に従わなければならない理論的整合性は無い。

 もちろん、ここに「必要条件から外れた」と記した通り、作家本人の目指す音楽の形態によっては、「声部」の概念はこれからも重要でありうる。が、それは別のトピックであり、終戦後以降の音楽のあり方を踏襲する作家の作品にあっては、理論的な逸脱は非難の理由としての妥当性を持ちうるとは言い難い。

・「和声警察」に共通する特徴

 ところで、「和声警察」諸氏の使う語彙にもまた共通した特徴が見出される。例えば「私には批判する権利がある」といった言葉だ。確かにあろう。が、一連の騒動は決まって「〇〇先生に公開で和声のダメ出しをされてます」といった、主語が「私」ではない文章で始まる。評価の自由を主張しながら、その最初の軸が一人称ではないのである。

 こうした光景を見るたびに、私は矢代秋雄の「ジョリヴェに対する偏見」を思い出す(『オルフェオの死』深夜叢書社)。「まず、私はこの人の顔が嫌いだ」に始まり、徹頭徹尾、創作の苦悩を前面に押し出すような安易さに対する生理的な嫌悪感のみを吐き出しており、ジョリヴェを斬って捨てた返す刀でベートーヴェンのことまで「ある意味に於て技巧の貧しい」「品のわるい」と言い切っている。これはこれで一つの価値観であって、一貫しており、矢代秋雄にとって芸術の美とは何かをかえって示す結果になっていて、ここまで振り切れば周りも得られるものがあろうに、と思う。

 が、「和声警察」諸氏は、決して過去の大家による理論的逸脱を批判しない。「全体を統一する理論」ではなく「個別の事例」を「各自の」「鑑識眼」で吟味するというが、そこで批判の根拠とするのが理論なのだ。理論からの逸脱を批判する一方で、理論からの逸脱を批判しないというのは、作品または作家によって線引きの位置を変えているわけであり、他者にはその基準が明確ではなく、論理的一貫性に欠ける。特定の目的をもった定義・座標たる理論が恣意的に運用されるとなれば、理論が理論であるその根拠を失ってしまう。ゆえに、専門家としても苦言を呈せざるを得なくなっていくのである。

 その実、「和声警察」は、作家の個人様式に対する生理的な嫌悪感を表明しているに過ぎないのだが、その表明が理論の正誤といった形式をまとうために、ややこしい事態となる。また、「着物警察」が人の手を突然掴むように、これらの問答が他人のスペースで行われるのも共通した特徴だ。「和声警察」が自分のスペースで自説を開陳するだけなら、たいした問題にはならないに違いない。が、好き嫌いの話をしているポスト主に対し、「こうした作品を好きだとプロが発言する社会的責任」「社会に出たらルールを守らなくて良いというのはおかしい」といった反応をする。これも共通している。ポスト主を擁護する専門家を決まって「堕落」という言葉で指弾することもまた、驚くほど共通している。

・通俗道徳的に理解される音楽

 禁則の指摘に留まらず、別々のはずの人間から共通する語彙・趣旨の発言が認められるとなれば、音楽ばかりでなく、社会学の領域からも考えられうる話ではないかと感じる。「和声警察」諸氏の「社会的責任」や「ルール」といった言葉は、それを考えるヒントを与えてくれる。つまり、彼らにとって音楽は倫理的・道徳的なものであり、音楽理論は一種の倫理的規範であると捉えている向きがあるということだ。なればこそ、現代の作家が禁則を犯していれば、破邪顕正の善行としてそれを指摘し、徳を積む。正しい人の正しい行いに反対する者は戒律を破る悪しき人であるから、私のような専門家は「堕落」していると指弾することもできよう。彼らの規範は古典派の作家を土台に打ち立てられたのだから、過去の大家の理論的逸脱はもちろん不問に付される。

 例を挙げる。何年前だったか、今年亡くなられた音楽学者の故・野口剛夫氏が『音楽現代』誌の連載で「R.シュトラウスは軽薄だとフルトヴェングラーは指摘した。ゆえに私も聴かない」という趣旨の文章を書いていた。彼がただの愛好家であればそういう楽しみ方もあるかもしれないが、現代の音楽学者という人が、過去の演者の価値観をそっくり借りて過去の作家を非難する様は滑稽だった。「ゆえに私も聴かない」がまとう道徳性だ。

 氏がもっとも社会に認知されたのは『「全聾の天才作曲家」佐村河内守は本物か(新潮45 eBooklet)』によってだったが、この文章も、「真実性に乏しい」「金のなせるわざ」と、道徳的な語彙で自分の印象を語るに終始していて、肝心の音楽に関しては(「交響曲とムード音楽の融合」の一語を除いて)あまり当たっているとは言えなかった。何より「私もこの作品を受け入れられなくはない。ただ、『交響曲』と呼ぶには抵抗がある」という言葉が彼のあり方を良く示している。「交響曲警察」だったわけである。

 騒動発覚後、氏はフルトヴェングラーの言葉を引いてゴーストライターだった新垣隆氏に自粛を迫る文章を書いた。高潔な音楽家の教えに従い改心なさいという態度は、もはや道徳を通り越して宗教じみていた。一方、現代音楽界では、芸術音楽の「高尚さ」と大衆音楽の「低俗さ」という文脈で新垣氏を擁護した者がいた。本当はこんなくだらない曲を書く人ではないということである。愛すべき同僚の今後の人生が掛かっているにも関わらず、劇伴作家たちの不興を買ってでも、音楽に対し道徳的態度を取るほうが大事なのであった。

・「娯楽」否定の行く末

 いくつかの未公開資料を手にしている私としては、もう少し詳細に触れられることもあるのだが、諸般の事情でここまでにする。ともあれ、ゲーム音楽作家の格では交響曲を発表できなかった佐村河内氏が、次なるプロモーションの手として打ったのが、ありとあらゆる不幸を詰め込んだ自伝本であって、それが見事に功を奏したがゆえに起きたのが、あの騒動である。結果的にではあるが、我が国のクラシック音楽がどれくらい通俗道徳的な文脈で受容されているのかを、彼ほど見事に暴いて見せた人物は、他にいない。

 そうして我らが界隈は、彼ひとりを詐欺師と断じて終わる。だが、そもそも音楽と道徳とを結びつけて考える社会でなければ、彼のプロモーションは効力を持たなかったはずである。さて、この社会において、音楽を道徳的なものとしてきたのは誰だろうか。誰が人々をそのように教育してきただろうか。真実性、高尚さ、そのような言葉で表現してきたのは誰だったろうか。彼は、単純に、我々の界隈の言語を模倣していたに過ぎない。

 つい先日も、SNSでは「娯楽」の一語が炎上していた。音楽が「生活のための労働や学業などの余暇に、気分転換をはかるため(新明解国語辞典第七版)」のもので何が悪いのかと思うが、もしかすると、社会に流通する「娯楽」の語意が変質してきたためなのかもしれない。つまり、ギャンブルやセックスといった欲望を表す語として。なれば、今日の社会の娯楽が単に貧困になっただけである。我々こそが娯楽の最たるものだと主張せずして、いったい何のために、我々は音楽を生きるのであろうか。

 さらに言えば、芸術は軽薄なものであってはならない、娯楽であってはならないという道徳的な捉え方は、実は道徳に淫する「娯楽」そのものである。自分以外の他者が快楽を得ることに対する嫌悪感の発露は、清く正しい自分のみが快楽を得られる資格があるという表明だ。よって、まったく同じ人物を罵倒するために用いた「権威の意味を考えない人たち」と「一見無害に見える権威主義者」という矛盾した物言いは、「和声警察」の中では矛盾しない。極東日本の21世紀に生きながら西洋の「上流階級の文化」の立場で語る矛盾も同じく、彼らの中では矛盾しない。乱暴に要約すれば「軽々しく音楽を楽しむな」である。音楽の前では正座して襟を正せと言いたいわけである。それほどまでに、自分の全人格が、音楽にさらわれた経験があってのことだろう。その点については共感する。「オタク」なのである。が、彼らが何かを成せることは決してないだろう。「オタク」であることを捨てねば、創作≒記録の立場には立てないからだ。

 ムソルグスキーは、特に『死の歌と踊り』で、社会の底辺に生きる人々の生活感情を芸術の文脈に招き入れた。我が国でも、柳宗悦が「民藝運動」で、社会の底辺に生きる人々と芸術の概念を直接的に結ぶ思考実験を成し得た。この意味から、私自身の好き嫌いは別にして、ポピュラー音楽の文脈の芸術音楽への再輸入は起きてしかるべきことと私は理解する。今にしかできないことは、今するしかない。それこそが「伝統」に通底するものの正体であって、今しか楽しめないことを今している作家のことを、私は私の美意識を超えて、俄然支持する立場である。そうでないものは、過去千年の作曲家たちがすでに実現してくれているか、あるいは未来千年の作曲家が成し遂げてくれるのだから。