2014年2月10日月曜日

3つの提言

 僕も少し冷静になってきた。
 
 これほど多くの音楽家の意見を見聞きする機会もそんなにない。そのひとつひとつを読むたびに、僕は切実に存する音楽家同士の「温度差」をもひしひしと感じている。僕にとってもっとも共感できる作曲家がキダ・タロー氏だったというのも、新しい発見であった。
 この際、少し音楽と切り離して考えてみてはいかがだろうか。
 
 例えばiPS細胞の虚偽発表。例えば旧石器捏造事件。いくつもの「前代未聞の巨大な詐欺事件」が、ここ数年だけでもいくつかあった。まんまと世間が騙され、発覚し、騒ぎになり、「どうしてマスコミは気付かなかったのか」という議論が始まる。毎度おなじみの光景である。
 人はなぜ騙されるのか。いかがわしいからである。
 ほんとかな? ほんとかな? と思いつつ、自分で自分をだますのである。
 こう考えれば単純だ。佐村河内氏は、誰にとってもいかがわしかった。
 今回は、その舞台がたまたま我々の音楽界であったというだけの話である。
 
 一方の新垣さんは、佐村河内氏という商売の「内部告発者」だ。
 内部告発者は、ふつう、守られるべき存在である。ましてや学校とは関係ない場所での内部告発なのだから、桐朋学園はむしろ彼の勇気を尊重しなければならない立場にあるはずだ。
 そもそもゴーストライターという表現を用いること自体が、話をややこしくしている。
 「18年も」という表現がややこしくしている。
 18年前であれば佐村河内氏のほうが無名で貧乏だっただろう。善意以外に手伝いをする理由がない。それがあまりに良く出来ていて、発注が来る。頼む。書く。また発注が来る。そんな繰り返しののちに佐村河内氏の手元には余分な200万ができて、自分好みの交響曲が欲しくなったと。これはゴーストライトと言うより、発注通りに家具をこしらえた職人の仕事である。その出来上がった家具を「日曜大工で作ったんだよね、俺が」とひけらかした、ここだけが良くないのだ。
 「お蔵入りになった」作品が「発表されて驚いた」と会見にもあった。
 「HIROSHIMA」は本来「現代典礼」であった。被爆者をせせら笑いながら書いたものでは断じてないのだ。被災地、障害者、そういう類のキーワードをすべて取り払って何が残るか。
 
 ゆえに思う。そもそもこの件。音楽にからめて考える必要がない。
 新垣さんの人柄が仮に悪くても、才能が無くても、彼の立場は守られるべきである。
 
 この件に関し、新垣さんを擁護・弁護しているつもりでありながら、しかし結果その逆になっている専門家の言説は多くないか。守っているつもりで貶めてはいやしないか。それは新垣さん本人名義の作品が「高級」で、佐村河内名義の作品が「低級」と考えているから起こる。そんなことは世間にとってどうでも良いのである。音楽家の中だけで通用している倫理なのである。
 人の聴く耳が衰えている、価値が分かってない、勉強が足りない、世間は低俗だ。
 機に乗じて発したそれらの言葉は、しばしの時を経て、そのまま返ってくるだろう。
 そのとき後悔するのは誰か。世間ではない。
 その温度差を埋める努力をしなければならないのは世間の方ではない。
 
 こんな事件ひとつで死ぬような音楽なら、さっさと死んだらよろしい。
 そのとき困るのは世間ではない。我々音楽家だ。

 クラシックという、まったくもってわけのわからない世界に突如登場したきわめていかがわしい人物によって世間に引き起こされた事件である。業界としてもなんとかこの事態の収束し、かえって盛り上げていかねばならない。よって、音楽家諸氏には僕から3つの提言がある。

 1.

 結局、あれはいかがなものだったのか。比較対象がなければ判断しようがない。
 そこで、例の指示書と200万の現ナマを持参して、僕の知っている限りの作曲家たちに片っ端から委嘱して回ろうと思う。幸い作曲家の諸氏も「誰でも書ける」「私も書ける」「やっつけでいける」とおっしゃっているので、バイト感覚で80分の劇伴風交響曲を注文通り作るなんて造作なかろう。
 何日間かオーケストラを借りきって、「俺も実際に指示書で交響曲『現代典礼』を作ってみた」と題し、演奏会を開く。きっと企画も大儲け。濡れ手で粟で良いではないか。稼いだ金でしばらく生きていける。誰も損をしない。断られそうになったら「僕、ここで自殺します」と脅すまでだ。
 そのために、今日、totoBIGを買った。
 当せんの暁には嘘偽り無く、隠し立てすることなくここにご報告申し上げ、その一部は僕個人の借金を返済させて頂いたのちに、記者会見を開き、この企画を正式に発表する。しばし待たれよ。
 外れた場合には、上記提案に対してスポンサーをしても良いという企業を広く募集する。
 もちろん僕も、死力を尽くした職人仕事をする用意がある。

 2.

 僕は作曲家の1年を惜しむ。それはのっぴきならない寿命であるから。
 本流ではないとはいえ、人工的に傍流を作るにも玉川上水ほどの犠牲が必要である。出来る限りの損失を補填しなくては、誰かが首をくくらなければならなくなる。プレスしたCDも勿体無い。
 だからレザーの手袋とサングラスを買い、僕が「新佐村河内守」を名乗ろう。
 より若く、より細く、よりチャラくなって帰ってきた新佐村河内守。僕以外の誰にこの役が勤まろうか。彼くらいいかがわしい人間など、この業界には僕しかいまい。
 曲が浮かばない演技も出来よう。少々ガチ過ぎて世間はドン引くかもしれんが、なんとか調整しよう。自伝もゴースト無しでお笑い路線に書き換えよう。「世間を欺いているんですか」と非難されれば「聞こえません」の持ちネタで対応しよう。
 そこであらためて「現代典礼」を演奏して回ろうではないか。
 掃除が面倒くさいので僕は狭いワンルームで結構だ。身の丈にあった生活費を月15万ほど頂いて、印税・興行収入の残りは作曲者本人と業界に投下する。コア企画をバンバン打っても痛くも痒くもない体力が業界につく。全員丸儲けで良いではないか。
 佐村河内名義作品を管理する出版社からのご連絡をお待ち申し上げる。

 3.
 
 教育者としての彼の愛されようはハンパ無い。
 そのような教育者を学校は無碍に処分して良いものだろうか。
 しかし学校も社会の中に存する。社会通念上、厳しい処分は致し方ない部分もあるやも知れぬ。やむなく解雇する必要があれば、代わりに僕を雇えばよろしい。一応は大昔にちょっとした賞も得ている身だから、世間体的にも何とかなろう。
 しかし僕はカリキュラムの組み方も単位の付け方もまったくわからないので、アシスタントとして個人の名義で彼を雇う。つまり、僕のゴースト先生になっていただく。その報酬として、僕が頂く賃金の99%を払い。残り1%は僕がタバコ銭としてめぐんでもらう。世間にも説明がつき、彼は今まで通りに学生たちに愛される。僕も学生たちと学生ホールで麻雀する機会が増える。良いことづくめだ。
 桐朋学園にはぜひご検討されたく思う。